映画と裁判用書面の共通点と差異
今夏、「マーラー~君に捧げるアダージョ」という映画が、岡山の「シネマ・クレール」で上映されていたので、今年が没後100周年になる、この作曲家の交響曲全集のCDを9セット所有している私は、久しぶりに映画館に出かけました。少なくともマーラーを愛聴する者にとっては、なかなかおもしろく、未完の遺作である交響曲第10番の第1楽章を、じっくりと調べて、その魅力を再認識する機会を与えられたことも含め、「見に行って良かった」と思える映画でした。
ケン・ラッセル監督の怪作「マーラー」との比較や、ヴィスコンティ監督の名作「ヴェニスに死す」におけるマーラーの音楽の使い方との比較等、いろいろと書きたくなることはあるのですが、このブログで触れたいのは、この映画を見て、「2時間弱で起承転結を描くには、テーマを絞って、他の部分は切り捨てざるをえない」ということを、あらためて考えさせられたということです。具体的には、この映画では、妻アルマの不貞により強い精神的衝撃を受けたマーラーが、フロイトの精神分析を受ける、というシチュエーション(ちなみに、このシチュエーションはフィクションではなく歴史的事実です)を通して、マーラーとアルマとの関係が描かれるのですが、マーラーを語るうえでの、その他の重要な要素、例えば「ユダヤ人であったことと、そのことによる人生への影響」や、「常にまとわりついていた『死』についての強迫観念」といったことには、殆ど触れられていません。2時間弱という限られた時間内でアルマとの夫婦関係を掘り下げて描くために、そこに焦点を絞り、その他の事柄については、意識的に触れないようにしたのでしょう。
実は、我々弁護士が、訴状や準備書面といった裁判用の書面を作成する際にも、同様な選択がなされています。ある法律問題については、それに直接的な関係をもつ事実のほかに、その前後や周囲に様々な事実や事情があることが多いのですが、裁判用の書面では、そこに記載する事実や事情を取捨選択することになります。そのような取捨選択をどのように行うかが、弁護士の腕の見せ所ということになるわけですが、ふと立ち止まって、自分の書いてきた書面を思い起こしてみると、必要十分に事実関係を拾えているか、不要な事実や事情を漫然と記載した、冗長、散漫な書面になっていないか、逆に、本当に重要な事実を書き落としていないかどうか、内心で自戒せざるをえません。まぁ、映画制作と裁判用書面作成とでは、当然ながら大きな差異もあるわけで、たとえば、あの記念碑的名作「2001年宇宙の旅」(ちなみに、あのオープニングで鳴り響いていたR・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」は、カラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏です)のような、「何だかとても壮大なテーマを訴えたいのはわかるけど、それが具体的に何を意味しているのかわからない」結論は、裁判用書面では完全にNGですけど(笑)。