【司法試験と神頼み】 岡大支所 弁護士 吉川拓威  司法試験の話題は一応これで最後にしようと思います...

【司法試験と神頼み】
岡大支所 弁護士 吉川拓威

 司法試験の話題は一応これで最後にしようと思います。私は,試験対策としてやれることすべてやったら,最後は「神頼み」だと思っています。私にとっては司法試験合格でしたが,たぶん,誰でも人生で本当に困ると最後は「神頼み」をするのではないでしょうか。でも,この多くの人が行う「神頼み」も良く考えてみるとわからない部分が多いです。宮本武蔵の名言に「神仏を尊びて神仏に頼らず」というのがありますが,そもそもこの「神仏」とは何かが問題と思います。日本には神社仏閣の類がたくさんあり,世界には宗教が多数ありますが,でも平和とは言い難いです。宗教を信仰している人の間でも紛争は絶えません。人生がうまくいかなくなり始めると,「神がいるなら,こんなにも世の中が混乱しているのはなぜ?」とか,「どうして自分の願いは聞き入れられないのか?」とか,人生がうまくいっているときはあまり考えないことを考えたりします(笑)。それで「神や仏」なんているはずがないなどと言ったりするのですが,他方で,どうしても「神や仏」を捨てきれない自分もいたりするのです(宗教や信仰をもたない人でも神社仏閣の類にお参りしたことは1度や2度ではないはずです。)。「一体何が,自分の人生を動かしているのか。」「自分は誰かに動かされているのか。」「自分という本質はそもそもどこから来たのか。」,「死んだらどうなるのか。」,とか人生うまく行かなくなり始めると,いろいろ考えたりするものだと思います。私も試験に何度も失敗したときにいろいろ考えたり,本を読んだりしました。自分に一番しっくりきた考え方は,「自分自身が自分の思いで自分の人生を創っている」という考えです。しかし,この考えは,他方でかなりシビアです。というのもこの考えによると,すべては自己責任ということになり,言い訳ができなくなってしまうからです。でも,常に自分の思い通りというわけではないにしても,不思議な経過で自分の思いが叶うことがあることも,誰でも人生で何回かは経験していると思います。神とか仏とかは,結局は頭で理解しようとするものではなく,自分自身で体験しなければならないものなのかもしれません。こんな話を読んだか,聞いたことがあります(何の本か,誰から聞いたかは忘れました。)。これから戦おうとしている若者の敵には自分の恩師が含まれており,その恩師に対して戦いを挑もうとしている若者がそのことについて悩み聖者に尋ねます。それに対して聖者は「おまえが祈っている神と同じ神に敵も祈っている。神は価値判断をしない。おまえはただ,自分がこの人生でやると決めたことをやりきらなければならない。」と回答したというものです。後から,もしかしたら「バガバットギータ」の一節かもと思い少し調べてみましたが内容が違うようでした(ちなみにインドには大叙事詩が2つあり,そのうちの1つであるマハーバーラタの一節がバガバットギータですが,私はよく理解していませんし,解釈も様々あるようです。)。ところで,私は,司法試験に受かる前の年に択一に落ち,来年を最後にしようと思い,ある日突然夜行バスに乗って京都に行きました(当時,私は東京で一人暮らしをしてました。)。少し恥ずかしいのですが,それで何をしたかというと,「神仏」に文句を言いに行ったわけです(私は特定の宗教を信仰していませんが,とにかく,京都ならお寺の類がたくさんあると思ったのです。)。それで最初が,鞍馬寺だったと思うのですが,そこから初めて最後に清水寺に至るまで目に入った東のほうのお寺は大体すべて入って「自分は一生懸命したつもりである。だから自分を受からせてくれ。これだけやってもダメなら,今後,神仏は信じない。受からせてくれたら,何か役に立つことをする。」というような文句を賽銭を入れながら言ったのです。そのせいかどうかはよくわかりませんが,翌年合格することができました。そのようなわけで,私は,受験生の方に聞かれたときには,最後は「神頼み」というようなお話しをついしてしまうのです(笑)。                       以上

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